戦国時代にタイムトリップ!?「三増合戦まつり」

毎年9月下旬になると、愛川町の街なかには約2,000本ののぼり旗が所狭しと並びます。武田信玄公ゆかりの風林火山の旗や北条氏康公が用いた五色の馬印は町の人の手づくりです。

永禄12年(1569年)の「三増(みませ)峠の戦い」を甲冑姿の将兵が再現する「三増合戦まつり」は、今年で19回目の開催となります。どんな由来があるのか、見どころはどこか、愛川町商工観光課の藤田さんを交えて、三増合戦まつり実行委員会の皆さんに伺いました。

(左から)三増合戦まつり実行委員会総務部の小川善正さん、会長の岡本忠昭さん、甲冑部の高木正徳さん、総務部の小林晴男さん

 

歴史に残る激戦「三増峠の戦い」

—三増合戦まつりはどのようにして始まったのでしょうか?

岡本忠昭さん(実行委員会会長) 聞いたところによると、合戦場跡周辺の畑に2カ所あった墓石のようなものを、農作業の邪魔になるから片付けてもらえないかと、畑の持ち主が地区の役員の方に相談したらしいんですね。平成10年(1998年)にそれを掘り起こして片付けていくと、下から人骨が出てきた。その遺骨は北条氏に仕えた間宮善十郎某と思われました。

それをきっかけに、地区の役員さんなどが集まった席でお清めを兼ね、お祭りをしたらどうだという話が出たらしいんですね。

高木正徳さん(実行委員会甲冑部 それ以前の、昭和44年(1969年)にも、「三増の戦い」で亡くなった4,000人以上の戦死者を供養しようと石碑を建て、400年忌の慰霊祭が行われました。その後しばらくやっていなかったんですが、遺骨が出てきた平成10年から準備して、合戦から430年目にあたる平成12年(2000年)からまちおこしにつながればと、毎年慰霊祭と合わせて「三増合戦まつり」をやることになったんです。

三増合戦まつり実行委員会会長の岡本さん

 

本格的な甲冑と鉄砲を手づくり

—当初から、甲冑姿で戦を再現していたんですか?

小川善正さん(実行委員会総務部) 甲冑作りから始まりましたから、甲冑隊と馬は、最初からいましたね。

岡本さん 手づくり甲冑は北条が20、武田が20、そのほか総大将のものなど合わせて60領くらいあります。鉄砲も手づくりです。

小川さん 甲冑の作り方を学んで自分で作っている方が町内にいらしたんですが、その方の紹介で講師をお呼びして、教わった人が今度は講師になってという形をとり、有志で数を作りました。ボール紙を甲冑の形に切り出してあるものを曲げて、下地塗装して、その上から色を塗ってと少なくとも3回は塗装して、それから形を整えて。仕上げにパーツを結び合わせる縅(おどし)は、本物を作っているところは小田原にしかないので、小田原まで足を運んで調達しました。

馬に乗る人には馬にも慣れてもらわないといけないので、練習にも行きましたね。

高木さん そろそろ甲冑の作り方を引き継ぐために、また作らないといけないですね。

合戦場跡で、愛川町商工観光課の藤田圭さんに甲冑姿になっていただきました

 

—実際に着る役目は、どなたが務めているのでしょうか。

高木さん 有志の方や役場の新入職員、愛川高校の高校生にもそれぞれ10人ぐらいに着てもらっていますね。公募の枠も10人ほどあって、外国人の方が応募してくれたけどサイズが合わなくて困ったこともありました。一人ひとり役を決めて、メンバー表を作るんです。

自前の甲冑で寸劇を演じる演劇集団(SacT)の方たちもいます。20人近くで甲冑劇をやってくれるんです。「甲州和式馬術探求会」の方たちは3頭の馬と、引き手や乗り手合わせて8人から10人くらいで、馬上舞武芸(えんぶげい)を披露してくれます。総勢70人くらいのパレードになるんですよ。

帰陣式。出陣式と帰陣式(三献の儀)では、総勢70名の甲冑隊が会場周辺を闊歩します

 

小川さん 甲冑隊に参加する人以外にも、100円で甲冑を着て誰でも記念撮影できるコーナーも設けています。その場でプリントしてお渡ししているんですが、これは外国人の方の参加も多いですね。ただ、初めて着る方がほとんどで、大人でも5分くらいは着るのに時間がかかってしまうので、10分に1枚くらいしか撮れないんですね。お子さんは喜んで着る子もお母さんに嫌々着せられる子もいて、なだめながら10分から15分くらいかかって着せて(笑)。

ポスターデザインなどを手がける小川さん(左)と総務部長の小林さん(右)

 

見どころは“かけ合い”と“パレード”

—演技の見どころはどんな部分でしょうか。

藤田さん 儀式のときの総大将と隊長のかけ合いが面白いんですよね。初めて職員で参加したときに、「なにこれ!?」って思いました。

岡本さん 総大将は儀式のときに中心になる人で、隊長は実際に戦に行って戻ってきて、「戦が終わりました」、「多少ケガしました」などと総大将に報告するわけですね(笑)。

小林晴男さん(実行委員会総務部) 総大将は台本に一字一句忠実で、隊長はアドリブっていう。

高木さん 「鉄砲隊遅ーい!」とかね(笑)。

小林さん 後継者を作らないといけないので大変ですね。

シナリオの分厚さに驚きます

 

小林さん あとは、会場内だけでなく、のぼり旗が立ち並んでいる道を甲冑隊が山を背景に行進しているところをぜひ見てほしいですね。

岡本さん パレードは行きは500メートル、帰りは300メートルほどあって、馬もいるんですが、会場にみんな集まるので、パレードする道中に観客が少ないんです。

高木さんに鉄砲の使い方を教わる藤田さん

 

町のいたるところで語り継ぐ

小林さん あと、町立高峰小学校の子どもたちが歌う「高峰健児(たかみねけんじ)」は応援歌として使われていました。

小川さん 昔は運動会のときに歌ってたんですよ。高峰小学校を卒業している人はみんな知ってると思います。

 

—パンフレットにある「三増古戦場(みませこせんじょう)」という歌は?

高木さん 「三増古戦場」は地元の人が作った歌で、これは会場でずっと流していますね。歌詞の中の松とは、信玄の旗立松(はたたてまつ)のことで、武田信玄が陣地の旗を立てたところが現在のゴルフ場の上にあるんです。その場所に登ると昔は合戦場が見えましたが、今では木が生い茂ってしまっています。松は昭和の初めに焼けてしまったので、今あるものは2代目かな。

小川さん 北条氏が滅びた後、徳川家が視察にきて、あまりにもハゲ山だらけなので木を植えなさいと言ったという逸話がありますね。

三増合戦場跡にある陣立図

 

—この戦は地元の人にとって、とても身近な歴史上の出来事なんですね。

高木さん 地元だけでなく、まつりの最初の頃は山梨県から武田の末裔の方が来られていたんですよ。

小川さん もともと武田と北条の戦いですから、最初は御旗を作るときにも武田方に許可を得たんですよね。

高木さん 武田方の浅利信種がここで討ち死にしていて、現在ゴルフ場の横の浅利明神に祀ってあります。祠(ほこら)はゴルフコース上にあったんですが、移動させて、元の場所に今は桜が植わっています。

岡本さん 慰霊祭は浅利明神で行われますが、浅利の末裔だろうという方が、現在は毎年参加してくださっていますね。

高木さん 中学校でも、騎馬戦を「武田北条の合戦」と名前を変えてもう3年目くらいになりますね。運動会の演目に入っていて、隊長の帰陣式なんかもちゃんとやるんです。

岡本さん 先生が武田と北条の武将に分かれて指揮を執ってるんですよ。

高木さん 騎馬を組むときには甲冑は脱ぐんですけどね(笑)。

慰霊祭が行われる浅利明神

地元の産品、楽しんで

—陣中鍋も列ができるそうですね。

岡本さん 陣中鍋の無料提供、これが目玉ですね。合戦のときに食べていたものをイメージして、地元の里芋やかぼちゃ、ねぎ、ごぼう、うどんを入れた鍋を1,500杯用意しています。最初は実行委員で大きな鍋を持っている方から借りていましたが、今は消防署から炊き出し用のものを借りてやっています。

高木さん 前日から準備してね。おいしいですよ。模擬店は、地元の神奈川中央養鶏さんに協力してもらった焼き鳥なんかもありますね。

最後のお楽しみプレゼントも、神奈川中央養鶏さんの卵100パックなど、いろんな商品が当たるので人気です。

 

—これだけ盛りだくさんのお祭りを続けられる熱意はすごいですね。

岡本さん 最初はいかに先人の作ってくれたものを残していくかということに必死でしたが、今は毎年何か新しいものをやろうという気持ちで望んでいます。19年経って実行委員会も高齢化しているので、今後続けるためにどうしていくか、考えていかないといけないですね。

実行委員の皆さんの熱い思いがこめられた三増合戦まつり。戦国時代にタイムトリップしたかのように感じられるお祭りをぜひ体感してみて下さい。

 

第19回三増合戦まつり
2018年10月7日(日)10時〜
三増合戦場碑周辺広場(愛甲郡愛川町三増1182-3)(雨天の場合は農村環境改善センター)
プログラム:和太鼓演奏、甲冑隊演技、木曽馬演技、舞踊、三味線演奏、大道芸、あいちゃん音頭、木曽馬乗馬体験など
主催:三増合戦まつり実行委員会
後援:愛川町・三増区・愛甲商工会

 

問合せ先
三増合戦まつり実行委員会
小林 090-7404-2859

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