一番のおもてなしは豊かな自然を残すこと 「箒沢荘」の女将 佐藤直美さん
丹沢湖の北面に連なる西丹沢の山麓、山北町の箒沢(ほうきざわ)と呼ばれる集落にある民宿の女将で、かながわ水源地域の案内人の佐藤直美さんは、30年以上にわたり、この自然豊かな神奈川県の奥座敷で大勢の観光客を出迎えてきました。地域の女性有志と協力し、地元ゆかりの縁起物グッズやご当地弁当を商品開発するなど、自然の宝庫である丹沢湖周辺ならではの観光資源の掘り起こしにも積極的に取り組んでいます。
田舎に帰ったような体験を味わって
佐藤さんが営む民宿「箒沢荘」は、丹沢山地の湧き水を丹沢湖へと運ぶ渓流沿いの集落にあり、四季を通じて山歩きや川遊びを楽しむ客でにぎわいます。水源地域の本格的な自然の中でしか得られない田舎体験をしてもらいたいと、宿のもてなしはなるべく地場の米や野菜、渓流で育てた川魚を振る舞います。
「お食事はヤマメやイワナ、マスといった川魚がメインで、地域の食材を使った煮物や煮っころがしといった田舎の家庭料理ですが、地元農家から仕入れたお米「はるみ」をガス窯で炊いた白飯は特においしいと褒められます。水のきれいな土地で作られたお酒もそうですが、丹沢の水で育ったお米だから余計においしいのでしょう。川魚も水がきれいな渓流釣り場で取れたものなので、特有の土臭さがありません。
民宿の前で明るい人柄のにじむ満面の笑顔で出迎える佐藤さん。喫茶店も併設している
ここから5分かからず降りた所に沢がありまして、夏はお客さんが水着に着替えて川遊びに出かけられます。川床が岩盤なので土が混じらずに透明で、この水で遊ぶと、よその川には行けないそうです。宿泊する子どもたちには『おばあちゃんちみたいでしょ』と声をかけるのですが、最近では『おばあちゃんの家はマンションだよ』と返され、時代の移り変わりを感じますね。宿にクーラーがないのは、夜になると涼しい風が入るから。昨今の温暖化で、都心では窓を開けて涼むこともないでしょう。田舎に帰ったような体験を味わってほしいんです」
丹沢山系から注ぐ渓流。透き通った水面が美しく、夏には川遊びの場所に
民宿の目前には推定樹齢2000年とされる国指定記念物の「箒杉」が、高さ45m、根回り18mの堂々たる風貌でそびえ立っています。丹沢山地にある山北町を象徴する観光資源になっており、運気をもらえる「パワースポット」としても知られています。併設して営む喫茶店には、その霊験を求めて参拝に訪れる観光客が年間を通じて立ち寄るそうです。
「箒杉からいつも強い気をもらっているように感じます。会社の仕事がなかなか取れなかったんだけど、この前お参りをして帰ったら、家に着くまでに2件の仕事が入ったとか。運気が上がったから、毎年訪れているとか。そんな伝え聞いた御利益をお客さんにお話しすると、ありがたがってお帰りいただけます」
宿を見下ろしている箒杉(左)。喫茶店には地産品や周辺施設を案内するギャラリーも(右)
地域ぐるみで観光需要を掘り起こせ
新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、アウトドアレジャーが注目され、キャンプ場や自然アクティビティの宝庫である丹沢湖周辺は、以前に増して観光需要が高まっています。佐藤さんによると、宿泊だけして箱根や御殿場に流れる宿泊客がほとんどだったのに、この土地で自然体験をして帰るという西丹沢らしいローカルツーリズムの傾向も目立ってきているそうです。
「ここから北に上ると、地区組合で運営している西丹沢渓流釣場があり、その先の西丹沢ビジターセンターは檜洞丸(ひのきぼらまる)や畦ヶ丸(あぜがまる)などの山々につながる登山道の入り口になっています。2時間半くらいで滝めぐりのできるコースもあって、有名なのが本棚の滝。春はミツマタの花が咲き、夏は沢歩き、秋は紅葉がきれいで、冬の山歩きも人気です。西丹沢にある三保(みほ)地区と呼ばれている山間部の一帯には、旅館や民宿、キャンプ場がたくさんあり、アウトドアブームになったコロナ禍には、県道を渡れないほどの交通量がありました。
豊かな自然が乱開発されず、丹沢湖周辺の景色は昔からずっと変わっていません。それがいいところ。これからも自然を残していくことが、この土地に住む人たちの生き残るすべなのでは。定住人口は増えずとも、関係人口が増えれば商売も成り立ちますから。最近では、森林セラピーや丹沢湖のSUP(スタンドアップパドルボード)ツアー、サイクリングといった自然アクティビティの事業者も増えています。丹沢湖の水はきれいなので、SUPをするには絶好のようですよ。民宿のお客さんも近場で遊ぶ場所を事前に検索し、しっかり予定を立てていらっしゃる遊び上手な方が増えてきました」
佐藤さんは、丹沢湖観光連絡会の会長も務めています。周辺の商店振興会と山荘組合が平成27年に合併した組織で、宿泊施設や飲食店といった加盟事業者がまちぐるみで観光業の盛り上げを図っています。令和9年度には東名高速道路の「山北スマートインターチェンジ(仮称)」が開通する計画になっており、地元には大きな追い風になりそうです。
昔から変わらぬ、丹沢湖周辺に広がる豊かな自然
「連絡会のメンバーはとても仲がよく、同業種同士でも満室になれば、お客さんを紹介し合ったり。首都圏からのお客さん相手の商売なので、キャッシュレス決済の導入も進んでいるのですが、お年寄りの経営者に『今のお客さんは現金をもっていないから必要なのよ』と説得したり。スマートインターの開通で、さらに都心から近くなります。その時になってからでは遅いので、それまでに観光地として何が必要かを議論しています。自然は眺めていれば残せるものでもなく、手入れが必要です。行政とも協力し、水源地域を守っていかなければいけません」
女性仲間と「門入道」や「みほ弁」を商品化
佐藤さんのもう一つのライフワークは、地域の女性有志と平成25年に立ち上げた「へろくり倶楽部」の活動です。「へろくり」は、この地域の方言で「こまごま仕事」の意味。子育ての落ち着いた女性が、その有り余ったバイタリティを地域資源の掘り起こしに向けています。木に墨で顔を入れた門入道(かどにゅうどう)は、山の神への信仰から、各家庭で木を切って作り、正月に玄関に飾っていたという昔からの風習です。貴重な地域資源であると感じた佐藤さんの呼びかけで、10年ほど前にグッズ作りがスタート。ストラップやミニチュアが道の駅などで販売され、年間500個は売れる商品になっています。
へろくり倶楽部では20代~60代の地元女性が交流を楽しみながら活動している
「門入道は、年始に近所の玄関に飾ってあるのを見て、地元のおじさんたちにあれは何だと聞くと、昔はどこにでもあったよなと口々に言うものですから、これは復刻しなきゃと。山北町内で聞いて回っても、ここのお年寄りしか知らなかったので、おそらく三保地区特有のものだと思います。箒沢の集落では、鬼を玄関から入れないよう、にらみを利かせた顔を描いていたのですが、玄倉や中川の辺りでは、福を招くためににっこりかわいらしい顔もあったそうです。
ウルシ科のヌルデの木が使われていて、この辺では『かつんぼ』『カツノキ』と呼ばれています。ストラップやミニチュアは、カツノキを切るところから手作りしているのですが、『カツ』にあやかって受験の時期にわざわざ買いにいらっしゃる方もいます。地元の三保小学校(令和3年に閉校)で年1回出前授業をしていたので、地域の若い人にも認知されるようになりました。門入道づくりのワークショップも開催していて、年数回のお申し込みをいただいています」
門入道のミニチュアや置物、ストラップ。縁起物として人気
また、ご当地弁当の「みほ弁」は、箒沢荘を含む三保地区の3店舗で連携し、商品化しました。地域の食材を使った田舎弁当をテーマとし、同俱楽部が竹皮の模様をプリントした共通の弁当箱を用意。各店舗は、ヤマメの甘露煮や干し椎茸の五目御飯など、それぞれ地域性を反映した料理を詰めて販売しています。
「うち(箒沢荘)では、三喜屋肉店さんのハムや橋本屋さんの鮭を使っています。あのハムと鮭はおいしいね、と地元では有名なんです。あとは、地域のおばさんに教わった混ぜご飯と煮卵が基本。この地域は昔から『甘ければごちそうだ。砂糖を利かせろ』と言われていたので、少し甘めの味付けです。学校の合宿で毎年発注をいただいたり、観光バスの注文で駐車場に届けたりと、受注生産で提供しています。うちではこの9月だけで、100食は出ています」
へろくり倶楽部のデザインした共通パッケージ(左)と箒沢荘のみほ弁(右)
外の目線から気付く地域の魅力
あふれんばかりの地域愛を感じさせる佐藤さんですが、結婚を機に夫の住む箒沢に来た「移住者」の一人です。箒沢荘は当時、先代女将の義母が既に他界し、休業状態にありました。夫も会社員だったため、佐藤さんが、失くすのはもったいないと事業を継承することにしました。外からの移住者だからこそ、生まれ育った人には分からない土地の良さを感じることができると言います。今では自他ともに認める地元っ子。同じ地域に住む前任者から「あなたしかいない」と推薦され、「かながわ水源地域の案内人」の役目を引き受けました。
取材に応じる佐藤さん。あふれるように地域への愛着を語る
「同じ三保地区に住む人からでさえ、よく箒沢みたいな所で住めるな、と言われるのですが、私は住むのだったらここしかないでしょ、というくらい箒沢が大好き。生まれ育った人よりも、むしろ嫁や婿で移住した人たちの方がいい所だねと太鼓判を押しているような感じ。うちの夫も『そ、そうか?』みたいな感覚ですし。水源地域の案内人の役目は、へろくり倶楽部の活動でも関わっていましたし、私だからできることもあるのではと引き受けました。
まちが高齢化する中で持続的に魅力的な地域にしていくためには、外から来る若い力を育てていかないと。箒沢の集落だけを見ても、若者が古民家を買い取って吹きガラスの体験工房を開業したり、茅ヶ崎市にある革工房の経営者が週末だけの雑貨店を開店したり、周辺だけでも楽しめる場所になりつつあります。ここの土地はいいね、何かしたい、という若者の窓口となって、地域との接点を作っていくのがこれからの課題です。
地方へ行かなくても、都心から2時間もあれば、これだけの豊かな自然の中に身を置ける。それが西丹沢の強みです。丹沢湖はヤマザクラが多く植えられ、春になると湖面が桜色に染まり、それはもう美しい景色。山には広葉樹が多く、11月初旬に山頂から色づき始めるので、12月中旬までにかけて、国道246号から県道76号(山北藤野線)に折れて走ると、どこかしらで見事な紅葉に出会います。観光するにも、子育てするにも、こんなにいい環境はありません。ぜひ一度、お立ち寄りください」
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